■陰行夜話・6


「ちょっと旦那、なんであそこであんなこと言うかな」
佐助は呆れ果てて幸村をたしなめた。
殿部隊を残した全軍は甲斐へ帰陣を始めている。幸村と佐助は、部下を休める傍ら打ち合わせをしていた。
「俺を引き合いに出したって士気は上がんないでしょ?」
信玄の驚いた顔が忘れられない。幸村の発言が、よほど意外だったのだろう。どうまとめていいのか判らず、うやむやのうちに放り出されたようだった。
思い出すだけで顔が熱くなる。信玄の「士気を高めたい」という目論みを呆気無く挫いてしまった幸村の言動と、その元として引き合いに出されてしまった事が例えようもなく恥ずかしかった。
忍の中で、名を成したい高名になりたいという欲を持つ者は皆無に近い。望むのは技の向上であり、一族の繁栄であり、せいぜいが忍の間や裏の世界で通り名を得ることくらいだ。
なのに、居並ぶ武将達の前で堂々と宣言されてしまった。こんなオープンに扱われてしまっては仕事にも支障が出るだろう。忍なのに、全然忍べていない。幸村と一緒に居る限りは無理だと思うと、なんか釈然としなかった。
一方携帯食で腹を満たした幸村は、はた目にも元気いっぱいだ。大振りな仕草で驚いた。
「そんなことはないぞ。佐助の働きは武田軍の誰もが知っている。ここで持ちこたえればその名が他軍にも広まろう。正念場だ」
やっぱり信玄の顔に気付いてなかったのか。
佐助は内心ため息をつきながら相槌を打った。
「そうは言うけどねぇ」
武家は、辱められたら相手を殺すか自分が死ぬくらいのことはやってのける。それほど名というものを大事にしているのだ。一方忍が名声欲とは無縁であると、佐助は口での説明を諦めた。今大切なのはそんな話題じゃない。
第一、名を上げても死んでしまえばそれまでだ。
現状は、言うほど簡単な状況ではない。
どう考えても絶望的。
どう考えても死ぬ。
戦だし死ぬのはしょうがないとしても、主が戦況を見誤ってたら一大事だった。
皆して無駄死にしてしまうし、本隊にも追い付かれてしまう。
「このところ佐助も真田の忍達と馴染んで来たのだろう?だから一隊を任す。俺が多数を食い止めている間に大将首を取って来てくれ」
「おいおいおいおいおい!!!」
簡単に言ってくれるな、大将自らおとり役やってどうする、と一瞬で二つの苦情が浮かんだが、咄嗟にはツッコミしか出てこなかった。
それだけ動揺したと言ってもいい。
佐助の常識から言って、死ぬかもしれない殿部隊の中で、更に死ぬ確率の高いおとりになる武将などあり得なかった。確かに敵軍の将を取れば、後は烏合の衆と化して統率が取れなくなる。個々に追ってくる敵ならば、撒くことも出来るだろう。
だが、口で言うほど簡単なことではなかった。
敵だとて、楽な追撃とはいえ警戒しているはずだ。当然、一隊を率いる将の周りは屈強な武士で固めているだろう。更に用心深ければ、忍の警護もあるはずだった。烏合の衆と化すのは幸村を失った殿部隊も同様なのだ。
しかし幸村は、わずかに首を傾けただけで動じていない。
「俺とてむざと殺される気はない。敵を食い止め、本軍に追いつかせず、一人でも多く打ち倒す。更に味方も出来るだけ生かして帰すための最良の策と思ったのだ。佐助にはより良い策があるのか?」
確かに、派手に暴れ回る幸村は陽動に適している。近隣でも名を知られ始めた幸村には、首を求めて皆が群がるだろう。そうして手薄になった敵大将の周辺に忍び寄り、打ち取る役目には佐助が一番適している。
だが、それでは佐助が幸村を守れない。
この役ばかりは他に任せていられなかった。
何しろ信玄から直々に頼まれている。負け戦の殿などで死なせたくはないと、はっきり言われたのだ。だから、絶対守りきる。離れることは出来なかった。
「全っ然駄目」
きっぱりと否定すると、幸村が眉を曇らせた。そういう顔をされると無垢な犬をいじめたみたいで謝りたくなってくる。どうも、幸村に振り回されているうちに強弱の関係が成立してしまったらしい。
しかしここで折れる訳にはいかなかった。幸村を、みすみす死地に行かせる訳にはいかない。自分の目の、いや目は行き届いていても手が届かない所へなど行かせたら護衛しきれなくなるだろう。そこだけは妙に自信がある。
幸村が佐助の顔色をうかがうように小さな抵抗を試みた。
「死に急いでいる訳ではないぞ?」
そんなのは顔を見れば判る。
幸村は決して諦めても投げやりにもなっていない。
静かな自信に裏打ちされた強い目をしている。
だが、やっぱり、どう考えても生き残れない。
全員討ち死に覚悟で戦わなければ守りきれないというのに、幸村は死守を前提にして、更に味方をも生かそうとしている。無理無謀の域だ。
佐助は取って置きの切り札を持ち出すことにした。
わざと、しかつめらしい表情を作る。腕も組んでみた。
「大将にダンナを生かして帰すように言われてるんだから絶対ダメ」
この一言には効果があったようだった。
幸村がふいを突かれて沈黙する。そしてやや俯いた。
静かに目を閉じる。
ざっと吹いた一陣の風に、鎧と同じ赤い鉢巻がひるがえった。
佐助は黙って、その様子を眺める。風にあおられて前髪が舞い上がり、額があらわになった。そうしていると一層幼く見える。

まだ十六なのだ。

決意をひるがえしたかった。
幸村だけでも生きて帰らせるためには、何より本人がそう思ってくれないと始まらない。幸村に期待している信玄のためにも、上田城を預かる真田家のためにも、幸村に死なれては困るのだ。
幸村を生かすためならば、佐助を捨て駒にしてもいい。
そんな命令を待つ自分をおかしく思う。だが、幸村を死にに行かせるよりははるかにマシだった。
保身に廻った挙げ句、主を見殺しにして生き長らえたとして、その先にあるのは卑怯者のレッテルだけだ。判っているからこそ、佐助は最初から仕事を優先する。逃げ出すのは、佐助一人だけなら辛うじて逃げ切れる程まで見切った時だけだ。
だが、幸村には佐助を見捨てられないだろうという予感があった。
どう見ても裏表のない好意丸出しの相手に、死ねと言えるだろうか。
この少年は、そこまで踏み切ることが出来るだろうか。
切り捨てることが出来れば、武将として更なる飛躍が待っている。
信玄のためと思えば、あるいは踏み切るはずだ。
幸村は、それだけの器を秘めている。
己の死を賭けている割に、佐助は平静として幸村を眺めていた。
動揺も混乱もない。ただ幸村の決心を待つだけだ。
大事な事は一人で決めなければならない。
そうしなければ、一生後悔する。
やがて幸村がうっすらと目を見開いた。
その瞳が驚くほど澄んでいて、佐助は声を失う。
幸村は佐助から表情を隠し、はにかんだようだった。
口元を見せないまま、小さく呟く。
「そうか…お館様がそう言って下さったか。ありがたいことよ」
なぜか、胸に暖かいものが込み上げて来た。
佐助はうろたえる。
戦のさなかに、こんなに感情が揺れたことはなった。
こんなザマでは、今、不意打ちを食らったらひとたまりもない。
幸村は佐助の動揺に気づかず、口調と同じ穏やかな表情で顔を上げた。
まっすぐに佐助を見つめる。

「だからこそ、御主の力が欲しいのだ」

その瞳に厳しさはない。だが、強い意志があった。
「最強の忍が居てこそ、俺は安心して陽動に専念出来る。本隊を逃がし、我等も生きて帰る。大それた望みだとは、もちろん重々承知している。
…だがな、出来ると思えて仕方ないのだ」
言葉の一つ一つに力がある。幸村が言えば、不可能も可能に出来るような気がしてくる。兵を動かすのに、こんな心強い大将が居るだろうか。
「無謀だと思うか?」
幸村が挑むような眼を上げて問いかけてきた。
否も応と応えたくなるような力強さ。
引きずられそうだ。

‐完敗だ。

勃然と思いが湧き起こった。
佐助は今の今まで死ぬ気でいた。
死にたい訳ではなく、結果として死ぬだろうと思っていたのだ。
それが幸村の命令だろうと戦った結果であろうと関係なかった。
もっと言えば、幸村に捨て駒の扱いを受けようと鉄砲の楯にされようと構わなかった。
それだけのものを、真田幸村という武将に見出したのだ。
幸村は生かして帰すだけの価値がある。
佐助の全力を捧げるに値する。
そこには一分の迷いも矛盾もない。
なのに。
今度は佐助が、思わず下を向いた。
どうしようもなくこみ上げてきた笑いを苦労して留める。
死ぬよりもキツい仕事を言い渡されるなんて思ってもみなかった。
こんなのの相手をしていては、命がいくつあっても、いや、命がある分だけ死地に行かされる。腹をくくるしかない。
やっぱり、どう考えても、この人には勝てない。
佐助は顔を上げて肩をすくめると、わざと素っ気ない態度を見せた。
「この上なくね」
幸村が目を丸くする。
佐助のこういう態度は、不承不承幸村の言うことを聞いてくれる時のポーズだと気付いたのだ。幸村の顔にみるみる喜色が浮かんでいく。
周囲の目もある。状況も状況だ。さすがに抱きつかれはしなかったが、今にも抱きつきそうな満面の笑みで幸村が大きく頷いた。

「感謝する」

その一言で、報酬は充分だった。



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