■陰行夜話・18


「この度の退き口での働き、見事であった」

将几に腰をかけた信玄を見上げ、幸村は頬を紅潮させて頭を下げた。
「なんとありがたきお言葉」
信玄の幸村を見つめる目は優しい。それは幸村が信玄を見ていない時が最も深い色を表していた。
幼くして父親を亡くした幸村である。信玄はこれまで、大将と宿将というより、父親代わりのつもりで接してきた。息子の成長のためには、褒めてばかりも居られない。わざとつらく当たることも多かった。
だが今回ばかりは幸村を褒めぬ訳にもいかないだろう。何しろ絶望的な退き陣からの撤退において、敵将の首まで刈ってきたのだ。特に幸村自身、両手の拳の骨を折る大怪我をしている。いくら褒めても褒め過ぎということはない働きぶりだった。
信玄は労りを込めて言葉を重ねる。
「今回は特に大戦であったな。常のごとく労ろうてやるばかりでは割に合うまい。さて何が欲しい?」
ちなみに、折れてしまった幸村の二槍の代わりは、既に鍛冶へ手配済みである。物欲に薄い幸村への配慮だった。
「では」
幸村はそこまで言って、口を閉ざした。信玄は内心首を傾げる。
幸村はいつも、論功行賞に際して何も欲しがらない。誰よりも顕著に働き、誰よりも恩賞に無欲である。幸村が何を欲しているか、信玄は知り尽くしていた。信玄の心からの賛辞と激励である。だから今まで、無理矢理褒美を取らせようとは思わなかった。知行の代わりに甲州金を渡したこともある。
なのに、今日に限って何かを欲している。珍しいことだった。
それはつまり、よほど大きな望みを抱いているのだろう。言いよどむ幸村に、信玄は鷹揚にうなずく。
「幸村が恩賞を望むなど珍しい。なんでも申してみよ」
その声に励まされるように、幸村が顔を上げた。年相応の迷いと期待が浮かんでいる。
「では申し上げます。某に佐助を頂きたい」
「ほぅ」
言ったきり、信玄は沈黙した。
猿飛の二つ名を持つ佐助の働きは、どの忍よりも際立っている。いずれ武田の忍隊、忍網の中心となってもおかしくない実力を秘めていた。
それを真田家の専属にしたいと言っているのだ。
生意気なと思うより、その思惑が知りたくなった。
「知行ではなく、なぜ佐助を?」
「お館様ご承知の通り、佐助は大変優秀な忍です。一を聞けば十を知り、先の先を見越した動きをする。佐助と共に働いた最初の合戦で、某は「背後を頼む」としか言いませなんだ。しかし佐助は某の背中を守ると同時に背後の戦場の動きまで見て伝えてくれ申した。なまなかの忍に出来る事ではございませぬ。幾度か佐助と合戦を共にし、そのすさまじき働きを目にし、是非とも我が手足となって欲しいと思いました」
実は幸村が能弁で理路整然とした物言いが出来ることは、武田家中でもあまり知られていない。信玄はその才能も愛し、交渉役でも活用したいと思っていたが、当の幸村は戦場での功績以外は隠すようなくせがあった。
恐らく、まずは槍働きで功を上げろと言った信玄の言葉を忠実に守っているのだろう。

だからって隠すことはないんだけれども。

信玄は愉快げに目を細める。
「儂の手足では不足と?」
「お館様の手足の役は、不肖この幸村が仕るのではいけませぬか。しかして佐助には、更に細やかな仕事をお申し付け頂きたい」
幸村は幸隆、昌幸と続く生え抜きの智将の血を受け継いでいる。若くとも知略に長けた綿密な計画を立てることが出来た。その準備に忍は欠かせない。優秀ならばなおの事だ。
だが今までは、幸村自身で細工に動いていたことが多かった。指示を出すより己で動いてしまう方が早かったからだ。だが佐助を得れば、幸村自身が暗躍する必要は無くなる。
そうして何を望むのか、信玄には興味があった。
「それで幸村自身はなんとする?」
「後顧を佐助に託すこと叶いますれば、幸村は一番駆けにて敵陣へ切り込みましょう」
「ほう、それはまた欲深いことを」
先鋒は新たに武田へ仕えるようになった新参者が行うのが、武田家の習わしである。死ぬ確率も高いが、功名を上げれば褒章は思いのままだった。
それを見越して、幸村は恩賞を望まない。
武名を上げること、腕を上げること、家名を上げること。
そして武田軍の上洛を果たすこと。
そのためには、むしろ家中で知行を増やしていては気軽に動けなくなる。武将は石高に応じて出兵数を定められているからだ。
だから佐助か。
信玄は小気味いい爽快感に襲われた。
「それほど気に入ったか」
「はい!佐助が欲しゅうございます」
その、一点の曇りもない笑みに引き込まれる。
信玄は思わず膝を打っていた。

「よかろう。くれてやる!」

石高を削ってまで忍を重用する真田はまともな家とは見られなくなるだろう。だが、己を武田家の悲願に添わせる幸村の姿勢は家中の模範になるはずだ。
信玄が幸村を重用すれば済む。
信玄は床几から身を乗り出して、幸村の瞳を覗き込んだ。その顔に笑いが交じる。甘味をねだる時と変わらない顔で、なんと大胆な願いを言うのか。
「目が肥えておるの。佐助一人で千石の価値はあるぞ」
「はい、精一杯の高望みをさせて頂きました」
はにかみながらも、幸村も笑顔を隠さない。卓越した先見の明を持ちつつも、幼さを残した打算無い笑みだった。
「某と肩を並べて戦ってくれる者を、ずっと欲しておりました」
それが弱気や他人任せな欲でないことは、信玄が最もよく解っている。
才走り過ぎて周囲の理解を得られず、父に疎まれた少年期の思い出はそうそう消えるものではない。判るからこそ、この少年に同じ轍は踏ませたくなかった。
信玄の声に感慨が交じる。
「儂もお主の本領が発揮される機を待っておった」
幸村に、割拠する梟雄の喉笛に食らい付く牙を与える。
武田の武威を知らしめる良い武将になるだろう。
それこそが、天下統一への足がかりになる。
「楽しみにしておるぞ。幸村」

そうして、この若き虎を天下に飛翔させるのだ。



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