■陰行夜話・15


さわさわと木々が擦れ合う音が頭上を渡って行った。

夜の森に無音はあり得ない。頭上に高く、風に木の葉が揺れているのだ。近く、遠く、己の周りを動いているような音が絶えない。森に包まれているようだ。
深夜の森の中で生き延びる術を持つ者は、この音を決して不安に思わない。 その中に幸村とただ二人で居て、互いに無言であるのが心地良かった。
幸村がぽつりと言を続ける。
「佐助のような素晴らしい忍に、どうしても味方になって欲しいと思ったならば、全てを信じて預けるしかあるまい」
静かな一言が、佐助の胸に沈み込む。
それは不思議な感覚だった。穴を埋めるべく投げ込まれた石のように、ぴたりと胸に収まったのだ。もう二度と取り出せないほど深みに落ちて、佐助の一部になってしまったようだ。佐助は咄嗟の返答に迷い、迷いに迷ってためらいながら口を開いた。
「俺、一介の忍だよ?」
わずかな沈黙が耳に痛い。

「人だ」

しかし幸村の断言は明快だった。人を人として、違いは認めるが上下を付けない。それだけ迷いがないのだろう。
「お館様も俺も佐助も等しく人である。この戦国の世で生き残るために必要なのは、身分や家名などではない。ただひたすらに、個人の技量にかかっている。
まこと優秀な者は兵卒であろうと忍であろうと得難い。そんな者が味方してくれればこれほど頼もしいことはない」
重々しく言った後、ふ、と幸村が弛緩する気配がした。
「…というのもお館様からの受け売りなのだが」
あー、照れてる顔が眼に浮かぶ。
常に感情表現豊かな幸村は、声を聞くだけで喜怒哀楽が解る。言葉と言葉の間にある沈黙ですら、何を意味するのかだいたい見当が付く。信玄の受け売りをえらそうに言ったのが恥ずかしくて、今は照れ隠しの話題を探してでもいるのだろう。
「それに、技量の点では俺は佐助にはるかに劣る。だから思ったのだ。佐助ほどの忍の信用を得られたら、俺も自信がつく、と」
照れ隠しじゃなく本気っぽかった。しかも冗談の方がいいような内容ときたもんだ。
佐助は顔が赤らんでくるのを感じた。飾らない言葉で心からほめられたことなど初めてなのだ。照れ隠ししたいのはどうやら自分の方らしい。
「なにやら顔が見えないと話づらいな」
こんな話、顔を見ていても恥ずかしいだろう。むしろ見えている方が恥ずかしいかも。恥ずかしそうに言っているとは思えない声で幸村が笑った。佐助もつられて失笑する。
降参するのも仕方ない、見事な幸村の将器だった。
まともに張り合おうとした自分がバカバカしくなってくる。
技能者である佐助は、武将のように難しく考える必要がない。けれども、知恵の過多は身分によって変わる訳ではなかった。当然、知恵の足りない武将も賢い兵卒も居る。だからこそ、大将には賢くある努力をして欲しかった。
誰にでも解る言葉と態度で、部下に示しを付けられる武将。
そんな武将を望んでいたが、現実にはなかなかお目にかかれるものではなかった。そもそもが、忍は己で主君を選べない。
だが佐助は、理想の主君を見つけてしまった。
幸村の言葉は単純で核心に迫る。
佐助が持ち得ない道を拓いて見せようとする。
これほど心地よい上司が他にいるだろうか。
幸村は腕を上げた。それに応じて佐助は幸村の手を支える。
「俺はまだ至らぬ点が多いが、きっと努力しよう。佐助に飽きれられたくないし、出来ればこの先もずっと、佐助と共に戦って行きたい」
幸いにして若い主君は、欠けている部分がある。それもかなり一般的な部分が大きく足りない。補うべき場所があるのが嬉しかった。
それでこそ、佐助の技も活かされるというものだ。
もっとも今は、技には関係なく、ここがどことか今何時頃なのかとかが肝心なのだが。
「ところで、別行動してた間の首尾は聞いてくれないの?」

忘れられてそうなので、結局自分で話題を振ることにした。



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