■陰行夜話・11


霧が発生したら、真田軍は散り散りに撤退することになっていた。
各自山の中へ逃げ、隙を見て武田軍へ帰る。それほど無謀な策ではなかった。
この周辺の山は武田領に近く、また険しいため、敵に遭遇する危険が少ない。山育ちの多い真田隊は、山中で2〜3日過ごす術など心得ている者ばかりだ。だから、逃げた後は己の体力と機転に任せ、自力で帰るしかない。
「やってくれるか」
幸村に問われ、真田軍は俄然やる気になった。
捨て駒のはずの殿部隊に、死ねと言わず生き残れと言うのだ。常でさえ、幸村は誰よりも危険な位置で戦っている。兵一人一人を思いやっての言葉と、判らない男はいなかった。皆が奮い立つ。
かくして真田軍の生き残り達は、一斉に四方八方へ逃走を始めた。
視界の利かない霧の中では同士打ちする可能性がある。
真田隊はただひたすらに、逃げに徹した。

あとは忍達の仕事だった。
霧程度の霞では、忍の卓越した視力の妨げにはならない。
真田忍隊は、急に発生した霧に動揺している織田軍に襲いかかった。
わざわざ背後などに廻らなくても、正面が見えていない。戸惑っている所を仕留めるのは小兎を狩るより容易かった。
次々とそこかしこから断末魔の絶叫が上がる。
佐助はその間を擦り抜けながら、幸村を探していた。
声を上げるような愚は犯せないから、ひたすら足で探す。
周囲に張り巡らした気の索敵には、幸村の気はまだひっかからなかった。
多くの織田軍兵士が倒れ伏している辺りを重点的に探す。
激戦を物語る惨状を目の当たりにしながら、佐助は次第に動悸が早くなっていく自分に気付いていた。
断ち切られた首からいまだ血を滴らせている死体や、死に切れずうめいている重傷者が恐ろしい訳ではない。そんなものは、物心ついた頃から見慣れていた。死体の切り口から、敵の強さや死後の経過を計測するなどお手の物だ。
そんなことよりも、見知った者の気配が掴めない。
その一念が佐助を駆り立てていた。
焦慮に駆られ、木々の間を疾駆する。
佐助の動きに合わせ、常人の目には不可視な、ただ葉の擦れ合う音だけが響いた。地上で生死をかけた殺し合いをしている人間達には、頭上のざわめきなど聞こえない。
動揺を悟られる恐れが低いのは、佐助にとっても幸いだった。
一つの恐怖が脳裏をかすめる。
気配が掴めないということは即ち、幸村の発する気がとても弱いということ。
あるいは既に、呼吸をしていない状態か。

「旦那…っ」

思っただけを口に出してしまったのか、その境い目に気付く余裕も無くしていた。



10    戻ル    12