■陰行夜話・10


実は佐助は、ほとんど本気を出したことがない。

こう言っては鼻持ちならない奴と言われるだろうが、それほどの強敵に出会ったことがないのだ。
忍とまともに相対出来るのは忍しか居ない。
特に師匠の下を離れて以来、佐助を本気にさせる敵に出会えたことはなかった。
だが今、にわかにその必要性に迫られている。
仮の主、真田幸村に無茶な要求を出されたからだった。
敵将を打ち取り、全力で戻る。
ここまでも立派な一つの仕事だったが、佐助にはまだ二段階成さねばならぬことがあった。
「…忍使いの荒いこって」
ぼやきながらも、口元の笑みは崩さない。
佐助は今、仕事に臨むのを粋と感じていた。
己の限界まで力を行使出来る爽快感がある。
酷使されるに足る相手が居る。
それが忍にとってどれほど得難いものか、本人はきっと解っていない。
佐助という個人を認める幸村は、佐助の技量をも個として評価しているのだ。
「悪いけど、ここで一気に潰させてもらうよ」
いまだ戦渦の只中であって、なるべく人気のない草地を選んで地に降り立った。しかし混戦のさなか、全くの無人という訳にはいかず、周囲の織田軍兵士が一斉に色めき立つ。
佐助は手元の武器を繰ると、わずかな間に6人の首を掻き切っていた。
顔色も変えず、息も乱さず、佐助は静かに目を閉じる。

今まで、あんなふうに笑ってくれた武士はいなかった。
嬉しいとか寂しいとか差別だとか言うつもりはない。
ただ単純に驚いたのだ。
感情が揺れること自体が珍しく、それが面白かった。
だからこそ、幸村に興味を覚えたのかもしれない。
「これも巡り合わせってやつか?」
だとしたら、どこの誰だか知らないが、随分と粋な計らいだった。
らちもない思いを巡らせながら、佐助は時と場所を過たない。
木立の間から、新たな敵が怒声を上げながら駆け寄って来た。顔も上げずに手元の武器を繰り出す。短い絶叫の後、再び辺りは静かになった。佐助の顔は静寂そのものだ。
「ま、いちいち気に病んじゃいられないけどね」
歯向かって来る者を屠ることに気を病んだことなどない。
ただ、目の前の木立を払いのける動作に似て意味はなかった。
幸村はそこに、意義を与えてくれるというのだろうか。
これを粋でなくてなんと呼ぶ。
両手で素早く印を組むと、一気に精神を編み上げた。
一瞬で集中し、意識を内側に向ける。
遠くから近くから聞こえてくる剣戟の音や喧噪が掻き消えた。
呼吸を細くし、気配を希薄にし、周囲に同調しようとしているのだ。
木々や草むらの隅々まで、神経が通いつめる様をイメージする。
気力が充実したのを感じた時には、自然に術が発動していた。


「‐霧隠の術」


佐助を中心に、霧が周囲を包み出した。
次第に視界が閉ざされていく。
忍術の中でも、奥義に類する難易度の高い技だった。
だが、佐助は易々と術を編み上げ、霧を広げていく。
術の有効範囲の広さは、そのまま術者の熟練度に比例する。広ければ広い分、精神的疲労が大きかった。
四半里。
ぴくりと、印を組んだ指先が震えた。
霧が四半里を越えたあたりで広がりを止める。
佐助は両手の印を解くと、うっすらと目を見開いた。
光を呑み込んでしまうような闇色の目が前方を見据える。
霧の中でも、忍の目は視界を遮られることがない。
霧隠れの術を施した範囲そのままに、気を巡らせていた。
探すのはただ一人。

必ずこの霧の中に幸村が居る。

息も乱さず、佐助は再び木立の間へと姿を消した。



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